学生サークルの文芸誌で掲載する作品を選別するのは是か非か

かつて私は某大学の某文芸サークルに所属していました。これはそこの後輩から聞いた話なので、細部は間違っているかもしれません。似たような事例がないか調べましたが見つからなかったので、とりあえず書いてみます。

 

事の始まりは二日前、その後輩とラインで話していた時です。

「そういえば今年の機関誌、全員分載せない可能性があるらしいですよ」

ちょっと言ってる意味がわからない。それが私の偽りのない感想でした。

まず文芸サークルというのは、ある小説について批判しあったり、自作の小説を発表したりするサークルです。極稀に勘違いしている人がいますが、手芸とは一切関係ありません。

私が所属していた文芸サークルでは、年に二冊の機関誌を発行し、文化祭で販売するというのが習わしでした。「機関誌」とは部員が書いた小説・詩など、一般的に文学と呼ばれるものを集めて作り上げる冊子です。伝わりづらいため、タイトルでは「文芸誌」としました。ほとんどの文芸サークルも同じように機関誌を発行し販売しています。若干違いますが、米澤穂信先生の〈古典部〉シリーズ、そのクドリャフカの順番の劇中で販売された「氷菓」を思い浮かべるといいと思います。

本題に戻りますが、後輩によれば今年の機関誌の一冊目には、全員分載せない可能性があるとのこと。ここでいう「載せない」とはもちろん、部員が書いた作品を載せない、ということです。

なぜそうなったのか。聞けば、部員全体に以下のアンケートを取ったのがそもそもの発端らしい。

Q.今年の機関誌の製作について

1.金は掛かるが上質な紙を使って全員の作品を載せる。

2.上質な紙を使い選考に通った作品のみを載せる。

3.安い紙を使い全員の作品を載せる。

要は経費削減の一環です。かつて私が所属していた時も経費はカツカツだと聞いていたので、経費を削減しようというのは大いに結構です。

が、この方法は愚の骨頂、下の下であると私は思います。いや、思うなんて生半可なもんじゃない、絶対にやってはいけないことだと確信しています。

この方法がいかにカスであるかは一旦置いておいて、ここでみんなが1か3を選べば話はそれで終わりでした。私のところまで話が回ってくることも無かったでしょう。私としては出来れば1を選びクオリティアップをはかって欲しいですが、お金がないというのなら仕方ありません。

しかしあろうことか現在、2番の選択肢が優勢らしいのです。

選考を行い、それに通った作品のみ機関誌に載せる。全くどうかしています。なぜ誰もおかしいと思わないのか。

 

まず掲載する作品を絞るというのが間違っています。文芸サークルに入る人は多かれ少なかれ、自己表現の場を欲しています。それも文芸というフィールドで。そのための手段が機関誌なのです。今でこそ投稿サイトや文学フリマなどハードルは低くなっていますが、まだまだ自分の書いた小説なり詩なりを個人で発表するのは大変です。それを安価で、手に残る「本」という形で発表する場を得られるからこそ、機関誌や文芸サークルは有意義な存在たりえるのです。

それなのに作品を載せてもらえない人がいるのでは、その活動に意義はないのです。これは決して掲載されない人が可哀想とかいった感情論ではありません。文芸サークルの在り方の問題です。

選考することについて、販売するのだからそれぐらいは当然、と言う人もいたようです。果てしないバカですね。

ぶっちゃけて言うと、文化祭などで機関誌を買う人はそこまで内容に期待していません。あれは言ってしまえばお布施みたいなものです。祭りなのだから、これくらいは買ってやろう。そういった気持ちの人が大半です。もちろん内容が面白いに越したことはないと思って買うでしょうが、中身が自分に合ってなくともさして腹は立ちません。何故ならアマチュアが書いたものだから

例えば在作中にプロデビューした人が書いた作品が載っているなら、その作品目当てで買うでしょう。あるいは去年読んで気に入った作者が書いていたり、もしくは知り合いが書いていたりしたら期待してその機関誌を買うでしょう。しかしそんな人は少数であり、多くの人は未知の作品でありながらありがたいことに買ってくれます。そしてそこに期待といった感情はほとんどありません。読んでダメであっても、まあこんなもんだろう、それでおしまいです。あなたは祭りで買ったおもちゃに腹を立てますか?立てないでしょう。それと同じことです。

ただ、だからと言って中身がつまらなくてもいいとは思っていません。私たちはアマチュアとはいえプライドを持って多くの人に読んでもらえるよう書いているのですから、面白くしようとするのは当然のことです。例えば新聞部は記事がつまらなかったら書き直しさせるらしいですが、私たちもそれと似たようなことはしています。

あるいは、東京大学やMARTHといった、人数が非常に多くそれに比例して作品寄稿数も多い文芸サークルなら掲載作品を絞るのかもしれません。しかし私共の文芸サークルは今でも人数はさして多くありません。他校の文芸サークルがどういった実態なのか、私はまるで知らないので、これについてはご意見をお聞かせ願いたいです。

 

そして次に気がかりなのは、選考という方法です。

小説というものは価値基準の判断が非常に難しいと私は考えています。例えばある人にとっては親の敵ほど憎らしい作品であっても、別の人にとっては人生を救ってくれた作品であるかもしれません。そういうことは多々あります。誰が読んでも傑作、そんな作品は滅多にありません(これは小説に限った話ではありませんが)。

そんな価値が判断しがたい小説たちを学生が選考できるかと言えば、答えはノーです。

作家でなければ編集者でもない、一介の学生に選考することが出来るとは到底思えません。よしんば選考したとして、それを誰が納得できましょうか。選考した相手は自分と同じ学生であるのに。

 

絶対的な面白さが無いように、絶対的つまらなさもまた存在しません。蓼食う虫もいます。どんな作品でも誰かに響く可能性は充分にあります。その可能性を個の判断で摘み取るのは傲慢といえるでしょう。そしてその可能性のるつぼが機関誌というものの在り方なのです。